僕の標榜するサウンドについて!
まずは、最初に現在と今後に向けての展開としましては、
僕は、唄が大事であるからこそ、その唄は、益々、より大きなサウンドの中で、
音量的な意味では小さく感じさせるバランスとなるかも知れない
という事です。
これは明確に、そしてとても大切に考え抜いてきたことなので、
以下の駄文にも目を通していただけるとありがたいです。
(文中、ウタ という単語にたいする漢字は、意図的に変えたり、
逆に意味に差を持たせない時には変換に任せたものを充ててます。)
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さて、ぼくは自身で主宰する(立ち上げる)バンドに関して、
それこそ199X年代から一貫しているのですが、
誤解や許容範囲の柔軟性も鑑みて、こう言い続けてきております。
『轟音ギターオルタナティブ』
力量不足や、伝え方の難しさ、そして常に意識の更新をしながら追い求めてきてるので、
スパっ、とそのレシピや盛り付けの黄金比率を打ち出せないというジレンマはありますが、
そこは変わってません。
変えることを恐れて、ではなく、まだ完成していないので、そこにたどり着かないと始まらないと思ってます。
僕は、どこまでミニマムな音になっても、また爆音に達して飽和しても、
上下左右どの方角に延々と視野を切り替えても、
現実との地続きではなく、しかし異世界というRPG的な箱庭でもなく、
自分なりに、主に追憶を保管&補完しうる濃度の光の屈折や空気の質量が感じられる様な、
敢えてあやふやな表現に逃げるならば「世界観」というものにしっかりと包まれた状態を創出したいのです。
そうした世界観をベースに、
世界観という文字の通りに、その「世界」の中で、
曖昧過ぎるフワフワしたものではない、明確に自身の体験や心境が投影された歌を、
どこにも届かないという、詩の出発点において抱く感情の衝動を前提にもって謳いあげたい。
そして、轟音ギター轟音ギターというのも、
あんにギターが聴かせたいとかではなく、
自身で歌いながら弾くギターが、さらにはそれに呼応してくれたもう一本以上のギターやそれに代わる何かしらの楽器が、
その世界観の中に居ながら、風や波を起こし、時に世界を揺さぶり、揺るがし、
世界観が破綻するんではないかというカタストロフィ的な展開をもたらすのに
最適な手段だと思うから、構成のうえで重視し、説明にも活用させてもらってます。
また一口にオルタナティブといっても、時代や相互の音楽表現現場、リスナーの意識、
それらを整理するための方便として、
正直とても多面的な解釈を持つ言葉となっているので、
どの時期のどのアーティストのどのサウンドがオルタナティブか、
どの帯域でどの音量で鳴るのが轟音ギターか、
説明は出来ません。
ただ今でもやはり顕著だと思えるのが、
洋楽と邦楽のボーカルの声に関するリスナーの感受性の誤差は根強いと感じてます。良し悪しではなく。
海外での活動経験もないし、パッと聞いて意味が理解できてない言語と母国語での歌唱の届き方を比較するのも乱暴だし、
洋楽っていっても国や地域、客層などなどで様々なフォーマットがあるとは思います。
しかしライブハウスでPAの方に端的に狙いを説明するうえで、
解釈の開きを考慮してもなお使いやすい例文だと思い、古いと思われても、
「海外のオルタナティブロック≦シューゲイザーの中間か、そこを行き来するバランスで僕は鳴らすので、
そのレンジ幅で外音をオペレーション下さい」
と伝えます。
僕の唄は、それこそ圧のレンジ幅が広く、声帯の脆さもあって、脱輪やエンストしかけた旧車みたいに声が出なくなりがちなんで、
状況や体調、メロディの必然に応じて、本当はもっとしなやかに歌いたい場面でも、
絶叫レベルに張ったり叫んだりしないと無事に歌いあげられません。
無事に行かないこともとても多いです。
張らないと、単純にメロというカーブを曲がりきれないんです。
併せて、感情的な歌詞が多く、唄に引きずられるので、
熱唱、絶唱になってしまいます。
これについては改善を何度も試みたけど、歌い手としての根っこの出力を下げるのは、
無意味だとの結論が出ているので、
変えられないのです。
また、シューゲやその他の音響的バンドの様に、
印象的なフレーズの配列で聞かせたり、声を楽器として成立させるようなコントロールも出来ないので、
一定の音量や定位に固定するのがやや難しいボーカリストだと自覚があります。
だからPAの方としても、音量差もあるし、歌い方も妙にエモいので、
歌い手の心情が伝わるように、と歌を立ててくださり、
結果それが楽曲の進行とともに楽曲の最前面で居座るようにもなり、
よく言えば、「熱いボーカリスト」という視え方を与えてくれます。
でも、それだと、経験として、熱い唄、熱い思い、熱い身体表現、
としか受け止められないのです。
唄というマテリアルがそれくらい聞き手にとってて重大な存在なのだと思います。
僕の歌力が、ではなく、
唄 というものが、多くの、特に日本のリスナーにとって。
※ここでも邦楽と洋楽という乱暴な対比になっているのはご容赦ください。僕自身にもその傾向はあるにはあります。
あくまでも、歌は、とても大切 なのです。
画一化したフォーマットでの着地点を探すだけでなく、
あらたなバランスを見いだせるなら、ぜひそうしたいと思ってます。
その結果として、歌の存在感も増せば最良です!
自分なりに様々な試行錯誤を継続してきており、
唄とギターのタイミングや細かな兼ね合いを意図したり、
自身で音作りする際に同一化してしまいそうなその二つの在り方を、
より近づけたり引き離したり、双方のエフェクトの設定も、
行ったり来たりして結局元に戻ったり何度も同じような施策を無限に繰り返したり、
ニーズとか採算が求めないズブズブの沼の中での作業が日々繰り返されてます。
まあ、これは僕の勝手な独りよがりな作業なのですがw
現時点の結論および今後の展望としてまとめますと、
ぼくは、歌が前面に来るサウンドには向かっておりません
またただでさえライブハウスに貢献できるほどの集客力もないのに、
唄を聴きに来て下さる方々が去ってしまうのは、
とても恐ろしいことなんですが、口頭で訊かれた際にも答えてはいますが、
なにか優柔不断な言い回しをしていないとも限らないので、敢えてここに書き記しました。
正しい共存、正しい闘争、正しい相乗効果を生むために必要な意図として、
僕の唄を好きだと言ってくださるとてつもなく有難く愛おしい数少ない応援を下さる方々には
本当に申し訳ないと思っているのですが、
多分ですが、自分調べの範囲において、
比較的強烈に「唄」を大切にしているタイプのミュージシャンであるからこその指向性なのだと、
自負があります。
受け止めて頂ければ幸いです。
どうか、是非ともお耳をお貸し頂けたらで結構です!
引き続き活動いたします!
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